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年金受給開始時期とリタイア資金の使い方

明日は自分の誕生日。

年金受給権発生日(65歳の誕生日の前日)まで、あとちょうど3年。
ふと「自分はそれまで生きているのだろうか」と考えることがある。

1994年7月以来、30年以上にわたって自律神経失調症を抱え、睡眠の質も一般的なものとは大きく異なってきた。

また、2006年頃までは10年以上にわたりベンゾジアゼピン系の薬剤に頼り、ここ5年間も睡眠薬(デエビゴ)を服用している。
長年にわたる薬の服用は肝機能などにも負担をかけているかもしれず、自分の寿命は平均より短いのではないか……そんな思いが頭をよぎるのだ。

最近では期外収縮の不整脈もかなりの頻度で出るため、健康上のリスクを感じずにはいられない。

そう考えると、お金の使い方も変わってくる。

リタイア資金には余裕があるので、生活費のために年金を繰り上げ受給する必要はない。

しかし、安定した定期収入がない生活が続いていると、どうしても必要以上に節約してしまう癖が抜けない。

退職後は泊まりがけの旅行もしていないし、外食も近所の定食屋や松屋、セルフ蕎麦屋のじゅうべえ程度。
喫茶店へ行くことさえ、ほとんどなくなった。

服や靴も買い替えを控えているため、かなりボロボロになってきている(笑)

そんな生活を送っていると、「いっそのこと年金を繰り上げ受給してしまおうか」という考えが頭をよぎる。

一方で、せっかく準備してきたリタイア資金なのだから、年金開始までの数年間くらいはもう少し贅沢をして、生きているうちに計画的に使っていく方が良いのではないか、とも思う。

資産を残すことよりも、自分自身の人生を豊かにするために使う――それこそがリタイア資金の本来の役割なのかもしれない。

なかなか答えの出ない、悩ましい問題である。

ただ、食にも道楽にも興味が無くなった今、考えなくてもよい問題なのかもしれない(笑)

デエビゴを断薬して気付いたこと

デエビゴをやめて一カ月、振り返ると副作用の方が大きかったのかもしれない

不眠対策として約5年間服用してきたデエビゴを完全に断ってから、一カ月以上が経過した。

長年飲み続けてきたこともあり不安もあったが、結果的には大きな離脱症状もなく断薬できた。

断薬直後は睡眠が不安定になり、夜中の2時頃に目が覚めて朝まで眠れない日もあった。
しかし、それは服用中にも珍しくなく、中途覚醒自体は改善していなかった。
加齢による変化だった可能性も高い(笑)

一カ月以上薬を使わずに過ごしてみて気付いたのは、以前から時々あった「ふわっとする眩暈」がいつの間にか消え、股関節の痛みもほぼなくなっていたことだ。

もちろん、これがデエビゴの副作用だったとは断定できない。
それでも、服用中は朝の倦怠感や頭の重さを感じる日が少なくなく、運転中に強い眠気に襲われたこともあった。
添付文書に「自動車の運転など危険を伴う機械の操作に従事させないよう注意すること」と記載されている理由を実感する出来事だった。

デエビゴは依存性が比較的低い睡眠薬とされているが、その点は私も実感している。
約5年間服用していても、2.5mgまで減量した後に無理なく断薬できた。

現在も睡眠は完璧ではない。
21時頃に寝ても午前2時頃に目が覚める日がある。
それでも、「薬がなければ眠れない」状態ではなかったことが分かった。

年齢とともに睡眠が浅くなるのは自然なことでもある。
若い頃のような熟睡を求めるより、日中を普通に過ごせているかを基準に考えた方が気持ちは楽になった。

今回の断薬を通して感じたのは、薬は必要な時には助けになる一方、惰性で飲み続けるものではないということだ。

少なくとも私にとっては、断薬により睡眠が大きく悪化することはなく、眩暈や朝の不快感、関節痛はむしろ軽減した。

米国政治を動かす「聖書預言」という視点

世界を動かしているもの

中東情勢を見ていると、国家間の利害や経済合理性だけでは説明しきれない出来事が少なくない。

その背景の一つとして挙げられるのが、米国の保守的な福音派と政治との強い結び付きである。

彼らの多くは、1948年のイスラエル建国や1967年の第三次中東戦争によるエルサレム掌握を、単なる歴史的事件ではなく、「聖書預言の成就」の始まりとして受け止めている。

旧約聖書『創世記』には、「あなたを祝福する者を私は祝福し、あなたをのろう者を私はのろう」という言葉が記されている。
この聖句を文字どおり受け止め、「アメリカが神の祝福を受け続けるためには、国家としてイスラエルを支持しなければならない」という信仰が、キリスト教シオニズムの根底にある。

さらに、ディスペンセーション主義と呼ばれる聖書解釈では、『エゼキエル書』38-39章に描かれる「ゴグとマゴグの戦い」が終末時代の重要な出来事とされている。
そこでは、ペルシャ(現在のイランと結び付けて解釈されることが多い)を含む連合勢力がイスラエルへ侵攻し、その後にキリストの再臨へと至るという理解がある。

もちろん、こうした解釈はキリスト教全体で共有されているものではない。
しかし、米国ではこの世界観を支持する福音派が大きな政治的影響力を持ち、共和党、とりわけトランプ陣営にとっては最も重要な支持基盤の一つとなっている。

そのため、エルサレムへの米国大使館移転や対イラン強硬姿勢なども、単なる外交政策や経済的利益だけでは説明できず、宗教的信念が少なからず影響していると考える識者も少なくない。

もしそうであるならば、私たちが目にしている国際情勢は、「政治の駆け引き」や「資本の論理」、さらには人間の欲望や思惑だけで動いているのではなく、それらを遥かに超えた大きな流れの中で展開しているようにも見えてくる。

物質的な因果関係や科学的なロジックだけで世界を説明しようとすると、かえって一つの疑問に突き当たる。

なぜ歴史は何千年もの間、これほどまでにイスラエルという小さな土地へ収束し続けるのだろうか。

そして、なぜ古代の聖書に記された出来事と現代世界が、不思議なほど重なり合って見えるのだろうか。

もちろん、未来を断定することはできないし、預言の解釈にもさまざまな立場がある。

しかし、人間が「自分たちの意思で歴史を動かしている」と思い込んでいるその背後で、人知を超えた何らかの大きな流れが働いているのだとすれば、人間の浅智慧でそれを止めたり、完全に理解したりすることはできないのかもしれない。

世界の歴史は、ときとして目に見えない巨大な筋書きによって運ばれているように感じられる。

だからこそ私は、その熱狂や恐怖に巻き込まれることなく、一歩距離を置き、歴史の目撃者として静かに見つめていたいと思う。

人知を超えた大いなる流れがあるのなら、それに無理に抗うのではなく、謙虚な心でその行方を見守ることこそ、私たちにできる最も誠実な姿勢なのではないだろうか。

無意味な時間

再び暇な週末・・・

今朝の散歩は先週と比べると、わずかながら秋の気配を感じる空気で、少しだけ余裕があった気がする。

週に一度は車のエンジンをある程度連続運転して、エンジン内部の水分を飛ばしておきたい。
そんな理由もあり、結局いつもの「養老で養老」である。

例によって往路の時間調整も兼ねて、養老公園を散歩した。
養老公園

今日は養老公園の空気も少しだけ快適で、先週よりはいくらか歩きやすかった。
気温は32℃ほどあったものの、木陰に入ると風が心地よい。
養老公園

散歩を終えた後は、いつものように養老SAへ。
養老SA

いつもと同じ時間に同じ席でスメタナ定食を食べ、その後はひげまんじゅうの在庫を確認して帰宅。

何も変わらない、何も起こらない。
それでも、こうして一日が静かに過ぎていく。

相変わらず無意味な時間だったが、それなりに充実していた。

そもそも最近は、多くのことに飽きてしまい、生きている意味さえ希薄に感じることがある。

だからといって悲観しているわけではないが、「今日あたり突然携挙されないかな」と考えてしまうこともある。

もちろん、そう都合よくはいかないものだ(笑)

見えない執着とデジタルストーカーの心理

一年以上にわたり、自宅サーバーへの不審なアクセスが続いている。

利用されたインフラはTencent Cloud、AWS、GCP、Alibaba Cloud、Azure、China Unicom ・・・ まさに世界規模の動員である。
DROP(アクセス遮断)されれば別のインフラに切り替え、制限が緩めば即座に戻ってくる。
その反応速度と執念は、もはや「業務」の範疇を超えている。

ストーカーの心理として知られているのは、 拒絶されるほど執着が強まる という逆説的な構造だ。

通常の判断力があれば:

  • 一年以上成果ゼロ
  • 証拠が積み上がる一方
  • 警察への相談記録も存在する

この時点で撤退するはずである。
しかし撤退できない。

なぜか

おそらく彼らにとって、アクセスし続けること自体が目的になっているからだ。
コンテンツを取得することでも、情報を得ることでもない。
「監視している」という行為そのものが、彼らの心理的な均衡を保っているのかもしれない。

これはデジタル空間におけるストーカー行為の典型的なパターンである。

拒絶されるたびに別の手段を探し、接触を試み続ける。
その行為が相手に与える精神的負荷を楽しんでいるのか、あるいは自分でも止められなくなっているのか。

いずれにしても、こうした執着は 病的な執念 以外の言葉では表現できない。
画面の影に隠れてリスクを侵さずに執着を満たしているつもりかもしれないが、ログという形で記録された異常な行動パターンは、消すことのできない足跡として蓄積されていく。

「見えない視線とパラレルな執着」にある都市伝説級の出来事をきっかけにつきまといが始まった可能性が高い。

上記の記事にある様に、退職した元職場との間で非常に後味の悪い、受け入れがたい出来事があった。
在職中から薄々感じていた違和感が最悪な形で露呈した瞬間であり、私の中では「すでに終わったこと」として距離を置いている存在だ。
もし、この終わりの見えない不審なアクセスがその延長線上にあるのだとすれば、まさに想像を超える出来事と言わざるを得ない。

ただし、これらはあくまでアクセスログの傾向から推測した仮説に過ぎず、特定に至っているわけではない。
真偽を確かめる術もないため、私自身もこれは一種の 「都市伝説」 として受け止めておくことにしている。