雑記

デエビゴを断薬して気付いたこと

デエビゴをやめて一カ月、振り返ると副作用の方が大きかったのかもしれない

不眠対策として約5年間服用してきたデエビゴを完全に断ってから、一カ月以上が経過した。

長年飲み続けてきたこともあり不安もあったが、結果的には大きな離脱症状もなく断薬できた。

断薬直後は睡眠が不安定になり、夜中の2時頃に目が覚めて朝まで眠れない日もあった。
しかし、それは服用中にも珍しくなく、中途覚醒自体は改善していなかった。
加齢による変化だった可能性も高い(笑)

一カ月以上薬を使わずに過ごしてみて気付いたのは、以前から時々あった「ふわっとする眩暈」がいつの間にか消え、股関節の痛みもほぼなくなっていたことだ。

もちろん、これがデエビゴの副作用だったとは断定できない。
それでも、服用中は朝の倦怠感や頭の重さを感じる日が少なくなく、運転中に強い眠気に襲われたこともあった。
添付文書に「自動車の運転など危険を伴う機械の操作に従事させないよう注意すること」と記載されている理由を実感する出来事だった。

デエビゴは依存性が比較的低い睡眠薬とされているが、その点は私も実感している。
約5年間服用していても、2.5mgまで減量した後に無理なく断薬できた。

現在も睡眠は完璧ではない。
21時頃に寝ても午前2時頃に目が覚める日がある。
それでも、「薬がなければ眠れない」状態ではなかったことが分かった。

年齢とともに睡眠が浅くなるのは自然なことでもある。
若い頃のような熟睡を求めるより、日中を普通に過ごせているかを基準に考えた方が気持ちは楽になった。

今回の断薬を通して感じたのは、薬は必要な時には助けになる一方、惰性で飲み続けるものではないということだ。

少なくとも私にとっては、断薬により睡眠が大きく悪化することはなく、眩暈や朝の不快感、関節痛はむしろ軽減した。

米国政治を動かす「聖書預言」という視点

世界を動かしているもの

中東情勢を見ていると、国家間の利害や経済合理性だけでは説明しきれない出来事が少なくない。

その背景の一つとして挙げられるのが、米国の保守的な福音派と政治との強い結び付きである。

彼らの多くは、1948年のイスラエル建国や1967年の第三次中東戦争によるエルサレム掌握を、単なる歴史的事件ではなく、「聖書預言の成就」の始まりとして受け止めている。

旧約聖書『創世記』には、「あなたを祝福する者を私は祝福し、あなたをのろう者を私はのろう」という言葉が記されている。
この聖句を文字どおり受け止め、「アメリカが神の祝福を受け続けるためには、国家としてイスラエルを支持しなければならない」という信仰が、キリスト教シオニズムの根底にある。

さらに、ディスペンセーション主義と呼ばれる聖書解釈では、『エゼキエル書』38-39章に描かれる「ゴグとマゴグの戦い」が終末時代の重要な出来事とされている。
そこでは、ペルシャ(現在のイランと結び付けて解釈されることが多い)を含む連合勢力がイスラエルへ侵攻し、その後にキリストの再臨へと至るという理解がある。

もちろん、こうした解釈はキリスト教全体で共有されているものではない。
しかし、米国ではこの世界観を支持する福音派が大きな政治的影響力を持ち、共和党、とりわけトランプ陣営にとっては最も重要な支持基盤の一つとなっている。

そのため、エルサレムへの米国大使館移転や対イラン強硬姿勢なども、単なる外交政策や経済的利益だけでは説明できず、宗教的信念が少なからず影響していると考える識者も少なくない。

もしそうであるならば、私たちが目にしている国際情勢は、「政治の駆け引き」や「資本の論理」、さらには人間の欲望や思惑だけで動いているのではなく、それらを遥かに超えた大きな流れの中で展開しているようにも見えてくる。

物質的な因果関係や科学的なロジックだけで世界を説明しようとすると、かえって一つの疑問に突き当たる。

なぜ歴史は何千年もの間、これほどまでにイスラエルという小さな土地へ収束し続けるのだろうか。

そして、なぜ古代の聖書に記された出来事と現代世界が、不思議なほど重なり合って見えるのだろうか。

もちろん、未来を断定することはできないし、預言の解釈にもさまざまな立場がある。

しかし、人間が「自分たちの意思で歴史を動かしている」と思い込んでいるその背後で、人知を超えた何らかの大きな流れが働いているのだとすれば、人間の浅智慧でそれを止めたり、完全に理解したりすることはできないのかもしれない。

世界の歴史は、ときとして目に見えない巨大な筋書きによって運ばれているように感じられる。

だからこそ私は、その熱狂や恐怖に巻き込まれることなく、一歩距離を置き、歴史の目撃者として静かに見つめていたいと思う。

人知を超えた大いなる流れがあるのなら、それに無理に抗うのではなく、謙虚な心でその行方を見守ることこそ、私たちにできる最も誠実な姿勢なのではないだろうか。

見えない執着とデジタルストーカーの心理

一年以上にわたり、自宅サーバーへの不審なアクセスが続いている。

利用されたインフラはTencent Cloud、AWS、GCP、Alibaba Cloud、Azure、China Unicom ・・・ まさに世界規模の動員である。
DROP(アクセス遮断)されれば別のインフラに切り替え、制限が緩めば即座に戻ってくる。
その反応速度と執念は、もはや「業務」の範疇を超えている。

ストーカーの心理として知られているのは、 拒絶されるほど執着が強まる という逆説的な構造だ。

通常の判断力があれば:

  • 一年以上成果ゼロ
  • 証拠が積み上がる一方
  • 警察への相談記録も存在する

この時点で撤退するはずである。
しかし撤退できない。

なぜか

おそらく彼らにとって、アクセスし続けること自体が目的になっているからだ。
コンテンツを取得することでも、情報を得ることでもない。
「監視している」という行為そのものが、彼らの心理的な均衡を保っているのかもしれない。

これはデジタル空間におけるストーカー行為の典型的なパターンである。

拒絶されるたびに別の手段を探し、接触を試み続ける。
その行為が相手に与える精神的負荷を楽しんでいるのか、あるいは自分でも止められなくなっているのか。

いずれにしても、こうした執着は 病的な執念 以外の言葉では表現できない。
画面の影に隠れてリスクを侵さずに執着を満たしているつもりかもしれないが、ログという形で記録された異常な行動パターンは、消すことのできない足跡として蓄積されていく。

「見えない視線とパラレルな執着」にある都市伝説級の出来事をきっかけにつきまといが始まった可能性が高い。

上記の記事にある様に、退職した元職場との間で非常に後味の悪い、受け入れがたい出来事があった。
在職中から薄々感じていた違和感が最悪な形で露呈した瞬間であり、私の中では「すでに終わったこと」として距離を置いている存在だ。
もし、この終わりの見えない不審なアクセスがその延長線上にあるのだとすれば、まさに想像を超える出来事と言わざるを得ない。

ただし、これらはあくまでアクセスログの傾向から推測した仮説に過ぎず、特定に至っているわけではない。
真偽を確かめる術もないため、私自身もこれは一種の 「都市伝説」 として受け止めておくことにしている。

レフト・ビハインド

昨今の中東情勢の悪化や、気候変動による猛暑、地震などの自然災害が相次いでいる影響なのだろうか。
最近、ニコラス・ケイジ主演のB級映画 「レフト・ビハインド」 を何度も見返してしまう(笑)

低予算らしく無名の俳優も多く起用された作品で、映画としての完成度は決して高いとは言えない。
しかし、不思議と印象に残る作品でもある。
ニコラス・ケイジはもちろんのこと、個人的にはリー・トンプソンの存在感も目を引いた。

先日発生した熊本の大きな地震もあり、改めてこの映画を思い出したので記事にしてみることにした。

「レフト・ビハインド」(Left Behind)とは直訳すると「取り残された者たち」という意味であり、携挙によって地上に残された人々の視点から物語が描かれている。

あらすじ

物語は、ある日突然、世界中で数百万人もの人々が跡形もなく消え去るという未曽有の出来事から始まる。

ジャンボジェット機の機長レイ(ニコラス・ケイジ)は、飛行中に乗客の一部が突然消失するという異常事態に遭遇する。
高度約3,000フィートの上空で機内は大混乱となり、さらに地上との通信も途絶えてしまう。

地上で危機的状況に置かれた娘を案じながらも、レイは機長として残された乗客の命を守る決断を迫られる。

映画としては典型的なパニック作品だが、その背景にはキリスト教の終末論が色濃く描かれている。

原作と「携挙」

原作は、アメリカの牧師ティム・ラヘイと作家ジェリー・B・ジェンキンズによるベストセラー小説『レフト・ビハインド』シリーズである。

作品のテーマとなっているのは、新約聖書に記される 「携挙(けいきょ)」 という終末論だ。

携挙の根拠としてよく引用される聖句は、以下の二箇所である。

テサロニケ人への手紙 第一 4章16-17節

主ご自身が号令と御使いの声、神のラッパの響きとともに天から下って来るとき、キリストにあって死んだ人々がまずよみがえる。

その後、生き残っている私たちが彼らとともに雲に包まれて空中へ引き上げられ、主と会う。

コリント人への手紙 第一 15章51-52節

私たちはみな眠る(死ぬ)のではなく、一瞬にして、たちまち変えられる。

終わりのラッパが鳴り響き、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられる。

福音派をはじめとする一部のプロテスタント教会では、これらの聖句を携挙の根拠として理解している。

携挙のタイミング

携挙がいつ起こるのかについては、キリスト教の中でもさまざまな解釈が存在する。

一般的によく知られているのは、次の三つの説である。

  • 患難前携挙説
    七年間の大患難時代が始まる直前に携挙が起こるとする説で、福音派では広く支持されている。

  • 患難期中携挙説
    七年間の患難時代の中間、約三年半が経過した頃に携挙が起こるとする説。

  • 患難後携挙説
    教会も大患難を経験し、その終わりにキリストの再臨と同時に携挙が起こるとする説。

患難前携挙説では、携挙の前兆として次のような出来事が挙げられる。

  • 信仰から離れる人々(背教)の増加
  • 道徳や倫理観の乱れ
  • 戦争や紛争の拡大
  • 地震や飢饉など自然災害の増加
  • 世界規模での混乱

これらはマタイ24章で語られる「産みの苦しみ」の始まりとも関連付けられている。

その後、携挙によって信仰者が地上から取り去られ、大患難時代が始まり、反キリストが現れる。
そして最後にキリストが再臨し、千年王国が始まるという流れで理解されることが多い。

最近の世界情勢を見て

もちろん、私はクリスチャンではないし、日本人の多くにとっても馴染みの薄い教えである。

しかし、中東情勢の緊迫化や世界各地で続く自然災害、異常気象などを目にすると、このような終末論を題材にした作品が妙に現実味を帯びて感じられることがある。

実際には偶然の積み重ねなのかもしれないし、人間は不安な時ほど物事に意味を見いだそうとする生き物でもある。
それでも、一度こうした知識に触れると、潜在意識のどこかに残り続けるのは確かなようだ。

映画はあくまで娯楽作品であり、終末論の解釈も教派によって大きく異なる。
それでも、こうした作品をきっかけに聖書や世界情勢について考えてみるのも、一つの楽しみ方なのかもしれない。

いずれにしても、今後どのような困難が訪れたとしても、過度に恐れることなく、冷静に状況を見極めながら行動していきたいと思う。

見えない視線とパラレルな執着

あと7日で、あの奇妙な出来事から丸一年が経過しようとしている。

去年の7月17日、私は定年退職した元職場の関係者に呼び出され、身に覚えのない「メールアドレス漏洩」の容疑者として追及を受けた。
その追及があまりにも稚拙で論理性を欠いていたため、私は事実関係を理路整然と反論。
後日、「ITリテラシーの低さが生んだ冤罪である」という旨の指摘をメールで送った。

会社側からは平謝りの謝罪メールが届き、件の騒動はそこで一度、幕を閉じた――はずだった。

しかし、本当の「不気味な物語」はそこから始まった。

ここから先は、あくまで私の自宅サーバーが記録した「不可解なデータ」と、身の回りで起きた偶然の一致に過ぎない。
確証があるわけではないので、現代のネット社会に転がる「都市伝説」の一つとして話半分に読んでほしい。

すべてが解決したはずの7月下旬以降。
私が運営する自宅サーバーのログに、ある「奇妙な足跡」が残るようになった。

それは一般的なクローラ(自動巡回)の動きとは明らかに異なっていた。
わざわざ古いスマートフォンの環境を偽装したり、クラウドサービス(AWSやTencent)の陰に隠れたりしながら、まるでこちらの様子をじっと窺うような、不自然な監視アクセス。

さらに不可解なのは、ネットのログと「現実の世界」が奇妙な連動を見せ始めたことだ。

9月、あまりの不快感から元関係者に「金輪際、関わらないでほしい」と完全な決別メールを送った。
すると、その直後である。
自宅の固定電話に、出る直前で切れる着信が連続して4回。
さらにその後、女性の声で「お世話に……」と言いかけて切れるという、奇妙な電話が入った。

さらに10月のある日には、有償の外部マーケティングツールを悪用したかのような、短時間で約2,700ページにおよぶ古いブログ記事を一斉に吸い上げる猛烈なアクセスが記録された。

過去の他愛もない日常の記事まで、隅から隅まで血眼になって貪り読むかのような、異様な貪欲さ。
もしかすると、「メールアドレス漏洩」の証拠とやらが、そこに都合よく転がっているとでも思ったのだろうか。

もしそうだとしたら、あまりにも滑稽な話である。
自分の正当性を証明しようと、藁にもすがる思いで証拠を探していたのか。
あるいは、私を攻撃するための材料を必死に探していたのか。

画面の向こうで、マウスをカチカチとクリックしながら焦燥感に駆られている『誰か』の姿を想像すると、恐怖を通り越して唖然としてしまった。
しかし、残念ながら、そこに彼らが求めるような「都合のいい真実」などあるはずもない。
残されたのは、システムに刻まれた猛烈な負荷のログと、彼らの空回りの足跡だけだった。

ネット上の不審なアクセスと、現実の無言電話。
これらは果たして、ただの偶然が重なっただけなのだろうか。
それとも、私の「決別」や「発言」に過剰に反応した、画面の向こうの『誰か』の執着心が具現化したものなのだろうか。

もし後者だとしたら、定年退職した一企業の元従業員を追うために、それだけの熱量とコストを費やしていることになる。
その歪んだエネルギーの源泉は、一体どこから湧き出ているのか。
想像すると、少し背筋が寒くなる。

あの冤罪事件からまもなく一年。
信じるか信じないかはあなた次第だが、画面の向こうの「見えない視線」は、今日も私のサーバーのログに、その哀れな足跡を残し続けている――かもしれない。