休日の風景

無意味な時間

再び暇な週末・・・

今朝の散歩は先週と比べると、わずかながら秋の気配を感じる空気で、少しだけ余裕があった気がする。

週に一度は車のエンジンをある程度連続運転して、エンジン内部の水分を飛ばしておきたい。
そんな理由もあり、結局いつもの「養老で養老」である。

例によって往路の時間調整も兼ねて、養老公園を散歩した。
養老公園

今日は養老公園の空気も少しだけ快適で、先週よりはいくらか歩きやすかった。
気温は32℃ほどあったものの、木陰に入ると風が心地よい。
養老公園

散歩を終えた後は、いつものように養老SAへ。
養老SA

いつもと同じ時間に同じ席でスメタナ定食を食べ、その後はひげまんじゅうの在庫を確認して帰宅。

何も変わらない、何も起こらない。
それでも、こうして一日が静かに過ぎていく。

相変わらず無意味な時間だったが、それなりに充実していた。

そもそも最近は、多くのことに飽きてしまい、生きている意味さえ希薄に感じることがある。

だからといって悲観しているわけではないが、「今日あたり突然携挙されないかな」と考えてしまうこともある。

もちろん、そう都合よくはいかないものだ(笑)

持続不可能

再び暇な週末・・・

ここ数日、暑い西風が吹き付けており、フェーン現象のような気象環境で連日40℃に迫る異常な高温が続いている。

今日も早朝から蒸し暑く、6時台の散歩でさえ汗だくになってしまった。

暑いし、大人しく自宅で過ごそうとも思ったが、部屋に籠っていても気が滅入る・・・

というわけで、例によって養老で養老。

例によって往路の時間調整も兼ねて、養老公園を散歩した。

養老公園

といっても、暑くて歩けないので、ほんの200~300mほど歩いて写真を撮っただけでお終い。

その後、養老で養老。

養老SA

ついでに、ひげまんじゅうの在庫も確認。

ひげまんじゅう

前回は24体もの在庫があったが、今日は15体になっていた。
……どうでも良い話なのだが(笑)

遠方へ出かけても、大した風景が待っているわけではない。

この、いい加減飽き飽きしたお決まりのコースでも、往復の揖斐川堤防から眺める風景や、薩摩カイコウズ街道の季節の移ろいを楽しめれば、それで十分だ。

そして、サービスエリアでランチを食べれば、多くの旅行者に囲まれて少しだけ旅行気分も味わえる(笑)

それにしても、年々酷暑が厳しくなっている。

昔から暑い日はあったが、近年は「今日は暑い」というレベルではなく、「外で活動すること自体が危険」と感じる日が当たり前になりつつある。

このまま気温の上昇が続けば、屋外での活動はもちろん、農業や建設業など、多くの仕事にも深刻な影響が出るだろう。

そう考えると、この状況は「持続不可能」としか思えなくなる。

経済活動と環境問題のバランスを取ることは、今の資本主義社会では極めて難しいのではないだろうか。

かといって、この資本主義社会に慣れきってしまった我々庶民には、どうすることもできない。

仮に急激な社会構造の転換、いわゆる「グレート・リセット」のような変化が現実になったとしても、その苦痛に耐えられる自信は無い。

さて、人類の運命は如何に。

出家したい

再び暇な三連休・・・
暇になると、これまでの人生を振り返ってしまう(笑)

振り返れば、本当に不思議な人生だった。
よく還暦を過ぎるまで生きてこられたものだと思う。

いずれにしても、この世への執着は日を追うごとに薄れていく。

リタイア後に出家する人が増えているという話を耳にするが、その心境は何となく理解できる気がする。

もっとも、自分にはそこまでの精神的な余裕も行動力も残っていない。
出家などという大それた決断をすることもできず、これから先をどう生きていけばよいのか、その答えもまだ見つからない。

そもそも、現代の「出家」とは、得度を受けて僧籍に入るような本格的なものばかりではないらしい。
俗世の煩わしさから距離を置き、会社員時代のしがらみや人間関係、時間に追われる生活から解放されて、静かに余生を送りたい――そんな思いを抱く人も少なくないという。

そう考えると、リタイア生活そのものが、すでに小さな出家のようなものなのかもしれない。
しかし、形の上で俗世を離れたとしても、心の在り様まで変わるわけではないのだろう。

結局のところ、どこにいても「どう生きるか」という問いからは逃れられない。

さて、この先どうしたものだろうか。
まあ、生きるも死ぬも大差ないのだから、なるようになるだろう(笑)

何も求めない

蒸し暑い土曜日、三川公園付近の背割堤を歩いてみたが、三百メートルほどで音を上げた。
木陰もなく、照り返す舗装の上を往復するだけ。
それで十分だった。
もともと目的地など、なかったのだから。

近郊は飽きてしまい、行くところがない、というのは案外、正直な感覚だ。
若い頃なら「どこか行かなければ」という焦燥があったのかもしれないが、今はそれすらない。
行かなくても、別に何も減らない。


家に戻って、何年も触っていなかったバイオリンを引っ張り出した。
松脂の匂いを嗅ぐのも久しぶりだった。
調弦して、バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」の冒頭を弾き始める。
指はもう覚えていなかったが、体のどこかが覚えていた。
思っていたほど、遠い記憶ではなかった。

ミュートを付けても、案外うるさい。
近所迷惑を考えて、数小節で引っ込めた。それでよかったのだと思う。
あの曲は、誰かに聴かせるために弾いたわけではない。
弾いてみたかっただけだ。

理由のない行動、というものが、この歳になるとかえって貴重に思える。
「意味があるから」ではなく、「ただそうしたかったから」動く。
それだけの動機が、いつの間にか希少なものになっていた。


このところ、生きていることの意味の希薄さについて、よく考える。

肉体は維持コストのかかる器でしかない。
食べて、寝て、老いていくだけの装置。
資産は使えば減る、砂時計のようなものだ。
人間関係も、突き詰めれば損得で動いているように見えることが多い。
血のつながりですら、それは例外ではなかった。

それでも、これは「絶望」とは少し違う。
むしろ、期待しなくなったことで得られる、ある種の静けさに近い。

仏教には「四苦八苦」という言葉がある。
生老病死の四苦に、愛する者と別れる苦(愛別離苦)、憎む者と会う苦(怨憎会苦)、求めて得られない苦(求不得苦)、心身の働きそのものが生む苦(五蘊盛苦)を加えた八つ。
並べてみると、これはそのまま今の自分の生活の目録のようにも見える。
老いていく体は生老病死そのものだし、家族への失望は愛別離苦と怨憎会苦の入り混じったものだろう。
資産をどう使うか分からずにいるのも、求不得苦の一種なのかもしれない――欲しいものが分からないという形の渇望。

欲がなくなる、というのは、悟りに似ている。
仏教でいう「執着からの解放」とは、こういうことかもしれない。
何かを強く欲しがらなくなると、失うことへの恐れも同時に薄くなる。
資産が減っても、家族に裏切られても、心の芯のところは案外揺れない。
それは強さというより、単に「賭けているものがない」だけなのかもしれないが。
四苦八苦がもとより生きることに織り込まれているのなら、それに気づいた分だけ、少しは身軽になれるのかもしれない。


仏教の考え方は、いまの自分には不思議なほど腑に落ちる。
それでも、心のどこかには、まったく別の世界観も残っている。

一方で、自分の中には、聖書的な終末論の影響も色濃く残っている。
母がかつて熱心な信者だったことの名残なのだろう。
「新しい天と地」という言葉には、今も惹かれる。
今のこの、腐りかけた世界の仕組み――経済、老い、人間関係のしがらみ――そのすべてが刷新される日を、どこかで待ち望んでいる自分がいる。

人格神としての聖書の神には、正直まだ馴染めない。
あまりに人間くさい。
むしろアインシュタインが語ったような、宇宙の秩序そのものとしての神のほうが、自分としてはしっくりくる。
だが、それでは「新しい天と地」を待ち望むことはできない。
法則には慈悲がないからだ。

この矛盾に、答えは出ていない。
おそらく、生きている間には出ないのだろう。
論破すれば解決する種類の問いではない。


「何が欲しいか」と聞かれれば、今は「特に何も」としか答えられない。
それは投げやりというより、正直な現在地だ。

ただ、今日、なんとなく弾いてみたバイオリンの音だけは、少しだけ心に残った。
数小節で引っ込めたけれど、悪くなかった。

何も求めていない、という場所にいながら、それでもふと手を伸ばすものがある。
矛盾しているようで、案外それが今の自分そのものなのかもしれない。

明日になれば、また何もしない一日かもしれない。
それでも、そんな日々も悪くはないと思っている。

ひげまんじゅう売れ残り

昨日までは雨の予報だったが、今日になって雨の降り始めが少し後ろにずれた。
というわけで、久しぶりに養老で養老。

例によって往路の時間調整も兼ねて、養老公園を散歩した。
養老公園
7月に入っているが、今年は暑くなるのが遅れているのだろうか。
今日は曇っているため、更に涼しく感じた。
このまま涼しい夏にしてもらいたいものだ。
涼しい中、蝉時雨だけはしっかりと聞こえてきたのが印象的である。

その後、養老で養老。
養老SA
久々のスメタナ定食。
スメタナ定食
特に値上げもなし。
生煮え気味のキャベツが旨かった。
ただ、食欲があまり無く、飯は食い切れなかった・・・フードロス御免

ついでに、ひげまんじゅうの在庫を確認。
ひげまんじゅう
飽きられてきたのか、在庫多数で所定の棚が埋まっており、他の場所にはみ出ていた。
総計24体もの在庫。
こんな多数の在庫を見るのは初めてだ・・・どうでも良いのだが(笑)

ここまで往復すると80km程度の距離だが、坐骨神経痛が出てしまい、これ以上車で走り回るのは苦痛を感じるようになってきた。
最早、車での旅は苦痛だ。

かといって、ツアーで旅する気にもなれない。
列車や飛行機での長距離移動、それも一人きりというのは空しすぎる(笑)

若い頃は移動そのものが目的になり得たが、今は移動が目的地に着くための単なる負荷でしかなくなった。
そもそも、観光旅行なんて一切興味が無くなってしまった・・・

休日の虚無感をどうやって埋めるかが、これからのリタイア生活の課題だ。