何も求めない

蒸し暑い土曜日、三川公園付近の背割堤を歩いてみたが、三百メートルほどで音を上げた。
木陰もなく、照り返す舗装の上を往復するだけ。
それで十分だった。
もともと目的地など、なかったのだから。

近郊は飽きてしまい、行くところがない、というのは案外、正直な感覚だ。
若い頃なら「どこか行かなければ」という焦燥があったのかもしれないが、今はそれすらない。
行かなくても、別に何も減らない。


家に戻って、何年も触っていなかったバイオリンを引っ張り出した。
松脂の匂いを嗅ぐのも久しぶりだった。
調弦して、バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」の冒頭を弾き始める。
指はもう覚えていなかったが、体のどこかが覚えていた。
思っていたほど、遠い記憶ではなかった。

ミュートを付けても、案外うるさい。
近所迷惑を考えて、数小節で引っ込めた。それでよかったのだと思う。
あの曲は、誰かに聴かせるために弾いたわけではない。
弾いてみたかっただけだ。

理由のない行動、というものが、この歳になるとかえって貴重に思える。
「意味があるから」ではなく、「ただそうしたかったから」動く。
それだけの動機が、いつの間にか希少なものになっていた。


このところ、生きていることの意味の希薄さについて、よく考える。

肉体は維持コストのかかる器でしかない。
食べて、寝て、老いていくだけの装置。
資産は使えば減る、砂時計のようなものだ。
人間関係も、突き詰めれば損得で動いているように見えることが多い。
血のつながりですら、それは例外ではなかった。

それでも、これは「絶望」とは少し違う。
むしろ、期待しなくなったことで得られる、ある種の静けさに近い。

仏教には「四苦八苦」という言葉がある。
生老病死の四苦に、愛する者と別れる苦(愛別離苦)、憎む者と会う苦(怨憎会苦)、求めて得られない苦(求不得苦)、心身の働きそのものが生む苦(五蘊盛苦)を加えた八つ。
並べてみると、これはそのまま今の自分の生活の目録のようにも見える。
老いていく体は生老病死そのものだし、家族への失望は愛別離苦と怨憎会苦の入り混じったものだろう。
資産をどう使うか分からずにいるのも、求不得苦の一種なのかもしれない――欲しいものが分からないという形の渇望。

欲がなくなる、というのは、悟りに似ている。
仏教でいう「執着からの解放」とは、こういうことかもしれない。
何かを強く欲しがらなくなると、失うことへの恐れも同時に薄くなる。
資産が減っても、家族に裏切られても、心の芯のところは案外揺れない。
それは強さというより、単に「賭けているものがない」だけなのかもしれないが。
四苦八苦がもとより生きることに織り込まれているのなら、それに気づいた分だけ、少しは身軽になれるのかもしれない。


仏教の考え方は、いまの自分には不思議なほど腑に落ちる。
それでも、心のどこかには、まったく別の世界観も残っている。

一方で、自分の中には、聖書的な終末論の影響も色濃く残っている。
母がかつて熱心な信者だったことの名残なのだろう。
「新しい天と地」という言葉には、今も惹かれる。
今のこの、腐りかけた世界の仕組み――経済、老い、人間関係のしがらみ――そのすべてが刷新される日を、どこかで待ち望んでいる自分がいる。

人格神としての聖書の神には、正直まだ馴染めない。
あまりに人間くさい。
むしろアインシュタインが語ったような、宇宙の秩序そのものとしての神のほうが、自分としてはしっくりくる。
だが、それでは「新しい天と地」を待ち望むことはできない。
法則には慈悲がないからだ。

この矛盾に、答えは出ていない。
おそらく、生きている間には出ないのだろう。
論破すれば解決する種類の問いではない。


「何が欲しいか」と聞かれれば、今は「特に何も」としか答えられない。
それは投げやりというより、正直な現在地だ。

ただ、今日、なんとなく弾いてみたバイオリンの音だけは、少しだけ心に残った。
数小節で引っ込めたけれど、悪くなかった。

何も求めていない、という場所にいながら、それでもふと手を伸ばすものがある。
矛盾しているようで、案外それが今の自分そのものなのかもしれない。

明日になれば、また何もしない一日かもしれない。
それでも、そんな日々も悪くはないと思っている。